若者と年寄りはどこがどう違う?【森博嗣】新連載「道草の道標」第6回
森博嗣 新連載エッセィ「道草の道標」第6回
【時間に追われる日常の謎】
若いときは時間に追われていた、と今になって感じる。歳を取るほど、思考や行動が合理化され、同時に、てきぱきと諦められるようになるから、時間的な余裕が生まれる。若者は、どんなものに対しても、自分にどう関係するのか見極める必要があるし、慣れないことも多く、時間が足りないと焦ってしまう。だが、そのわりに1日を長く感じる。1年もけっこう長いな、と思っているだろう。年寄りになると、ぼうっとしているうちに1日が過ぎ、1年もあっという間である。
ようするに、若いほどやること、やらなければならないこと、やりたいことが多い。多過ぎて時間が足りない。どれを選択するのか、どれができるのか、あれこれ考えているつもりでも、じっくり考える時間さえない。しかし、頭は回っている。いろいろ余計なことまで考えてしまう。思考が速いからこそ、時間が長く感じられるのだ。老人はこの逆で、思考が遅い。考えることも限られ、どんどん忘れて、ぼんやりしているから、時間が早回しになったように感じる。
最近、3000円くらいの腕時計を買った。何に使っているのかというと、目覚ましだ。朝の5時半にメロディを奏でる。しかし、僕はこれが鳴るまえに目を冷ましていて、今鳴るか今鳴るかと待ち構え、鳴ればたちどころに止める。つまり、僕は時間に追われているのではなく、僕が時間を追っている様相だ。こんなことは若いときにはできなかった。老人の余裕というのは、こんなものである。せいぜいこの程度のものだ。
かつて朝はなかなか起きられず、午前中は頭が回らなかったのに、今は午前中にしかまともに仕事ができない人間になってしまった。犬でも同様に観察できる。子犬は、走り回り、散らかして遊び、すぐに疲れて寝てしまう。非常に不規則だ。ところが老犬になると、毎日きっちり決まったルーチンで生活し、のんびりと構えているふうである。同じことしかしなくなり、自分のルーチンが乱されることを嫌う頑固者になる。
やりたいことが沢山あったはずなのに、知らないうちに諦めている。諦めるというよりは、どうでも良くなってしまう。なにもかもどうでも良くなったら、もう死ぬしかないわけだが、そういう死に方は大往生といえるだろうか。
若いときはいらいらすることが多かったが、これも以上の傾向から容易に原因を導くことができる。年寄りは、あらゆるものに対して鈍くなるから、いらつくことがない。いわば精神安定剤を体内で生成しているような状態であり、この意味でも死へ近づいている。ただ、若い人でも、死に近づいている速度はまったく同じなので、そのつもりで。
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